当選者の方へのメッセージ


 烏丸景 さま

 ヒロイン☆リクエストへのご参加、ありがとうございました!
 人間は少数でとのことだったのでとりあえず**させときました!
 ちょっとでも楽しんで頂けたなら幸いです!

 世津路章(こんぽた。)


ルタールの揺り籠

世津路章


 きゅうぅ…ぅん、と内燃機関の駆動する、その音で毎朝目が醒める。

 私は寝台から起き上がって、手早く着替えを済ませると鏡台の前に座った。長い髪を梳かし終えると、うなじの少し上で団子状にしてまとめ、日中乱れないようにカチューシャで抑える。いつも通りの行程を終え、ふと鏡の中を見ると、映った顔は自嘲気味に微笑んだ。

 碧い硝子の填めこまれた両眼。関節の継ぎ目が露わな手のひら。絶えず鳴る駆動音。
 そう、私は擬似生命体(アンドロイド)。

 今は技術も進歩し、擬似生命体を生み出した人間と全く変わらない姿を持つ、最新型の擬似生命体も多数存在する。彼や彼女は容貌のみならず機能性も洗練されていて、人類にとって良き友として賞賛されていた。私のような旧式の擬似生命体は、多くは時代遅れと破棄された。幸いにも、私は使命を与えられ、今もこうしてその勤めを果たすべく稼働している。

 ――私は、確かにここにある。
 その意味を理解しているのなら、稚拙な紛い物である己が身を嘆いている暇などないはずだ。

 私は自室を出て、厨房に向かう。ひとりで使うにはあまりにも広い空間に、私は毎朝気圧される。しかし、窓にかけたブラインドを上げ、作業台をふきんで拭き清める頃には、機体は日常のリズムを掴んでいる。窓の向こうからではいつも通り、丘の向こうから日が昇り、厨房を明るく照らし出す。

 今日の朝食は、既に昨晩しこんである。私は冷蔵庫を開けると、迷わずバットに手を伸ばした。作業台の上に置き、かぶせていたふきんを取り払う。

 そこには数切れのバケットが並んでいる。
 昨晩は小麦の白を見せていた切り口はいずれも、卵液の鮮やかな黄色に染まっていて、朝日に誇らしげに照った。

 きっとこれなら、お喜びいただけるはず――そう口元が緩むのを感じたとき、出入口がカタン、と開く音がした。私は目を向けるより先に、走り出していた。


「坊ちゃま、どうなさったのですか。こんな朝早くに」
「ルタール…」


 私が駆け寄り、腰を下ろして視線の高さを合わせると、彼――今は私の唯一の主人である坊ちゃまは、ぎゅっと抱きついてこられた。まだ寝間着からお着替えにもなっていない。目覚めてすぐ、こちらにいらしたのだろう。私の首の後ろにまわされた両手は、微かな震えを伴っている。


「怖い夢を、ご覧になりましたか?」
「…うん、そう。僕、何もわからなくなって、最後にはルタールのことも忘れちゃうんだ…そんな、ひどい夢」

 耳元で囁くように仰ったその言葉は、悲痛そのものだった。その中で呼ばれた自分の名に、全幅の信頼が込められていることを感じる。――内燃機関が、激しく唸る。歓喜と、懺悔とに。

 私は駆動音の昂りを抑えるためにひとつ大きく息を吐きだし、坊ちゃまの小さな頭を撫でた。


「大丈夫です。ルタールはずっと、ここにおりますよ。すべての怖ろしいものから坊ちゃまを守る、そのために…さあ、朝食に致しましょう」


 ようやくそれで安心なさったのか、坊ちゃまは私を抱きしめる腕をそっと解かれ、小さく頷いた。
 その双眸が小さな疑念に揺れていることは、気づかぬふりをした。



++++



 それでもフレンチ・トーストは、坊ちゃまの気を穏やかにするには大きな効果を果たした。

 染み込んだ卵液の砂糖が程よい焦げ目を表面につけて、歯を立てた瞬間カリッと香ばしい音が立つ。でも中はとろりと柔らかな口当たりになるよう、最大限の配慮をもって焼き上げている。坊ちゃまは大層ご満悦になられ、二度もおかわりをなされた。そうなることは見越して多めに用意してはいたけれど、空になったバッドを見るのは心地よい。

 きれいに完食なさったお皿を下げる。ふきんで食卓を拭き清めてから、ティーカップにあたたかな紅茶を注いで差し出した。そして、いつも通りの質問をする。


「今日は何をなさいますか」


 本を読まれるか、室内プールで運動なさるか、もしくは私の手伝いを、と仰るか。普段おとりになる選択肢を脳裏に浮かべながら、しかし私にはある予感があった。坊ちゃまのその目は、フレンチ・トーストに魅惑されているその間にも、折に触れて窓の外をご覧になっていたから――


「“外”に行きたい」


 果たして、予感は現実となった。

 坊ちゃまはカップに手をおつけにならず、椅子から身を乗り出すようにして、傍らに立つ私の顔を見上げられた。その眼差しには先ほど見て取った猜疑の念が、切実さを帯びて鋭く光っていた。


「遠くまで、なんて言わないよ。すぐそこの、丘の方まで…ううん、たったひと目でいい。“外”があるってわかれば、それでいいんだ」


 その悲愴な声はこの世の何よりも、私の心を激しく切り刻む。

 ああ、坊ちゃま――ただひとりの、私だけの坊ちゃま。この作り物の身にあたたかな心を授けて下さる、優しい坊ちゃま。

 その願いならルタールは、なんだって叶えて差し上げたい――でも。


「それは、およしになったほうがよろしいかと」


 私は窓の外を見た。
 丘の向こうから大きな暗雲が流れてきて、離れたここからでもよく見えるほどの大雨を大地に打ち付けている。


「今日は一日、ひどい天気になると聞いております。お屋敷の中で、ゆっくりなさるのが一番です」
「……」


 坊ちゃまは窓の向こう、急激に起こった暗雲をじっと見つめていた。



++++



 それから数日は、穏やかな時間が流れた。

 いつものように、坊ちゃまは書斎の中で本を読んでお過ごしになることが多かった。ときどきは、身体を動かすためにプールで泳ぐよう進言すると、素直に頷かれる。私がお屋敷を掃除していると、いつの間にか隣に立って私のお手伝いをしようとなさる。でも二回に一回はバケツをひっくり返して水浸しになってしまわれるので、そうなると私たちは笑いあうのだった。

 坊ちゃまのお部屋に移り、びしょ濡れになった御召し物を替え終ると、私は午睡を勧める。その日も、いつものように寝台の上に横たわる坊ちゃまを見届けてから部屋を後にしようとしたけれど、呼び止められた。


「ルタール、おはなしをして」


 まどろみ半分の幼い眼差しで、そう仰る。私は引き返すと、寝台の傍らに置いていた椅子に腰かけた。毛布から出された坊ちゃまの右手をそっと握って、静かな声で紡ぎ始めた。昔――昔の物語を。


「かみがみはめがくらくなっておりました。
すべてはただしくならべられ、ととのわなければならないと。
かみがみはいのちのうつわをつくりました。
そこにいのちをおさめ、ならべ、ととのえるため。
しかしいのちはてんでばらばらで、
めいめいすきなようにうごくので、
かみがみはさんどやりなおしました。
それでもうまくいかないので、かみがみはあきらめることにしました――」


 坊ちゃまはこのお話を大層好んでいらっしゃった。

 正直なところ、私としてはお聞かせしたくないものだった。だけど、坊ちゃまに願われてはは拒むこともできない。そんなにも、惹きつけられるのだろうか――この、救いのない物語に。

 それは坊ちゃまの無意識がそうさせるのかもしれない。そう考えて、私は内燃機関が大きく唸るのを感じた。突然のその昂ぶりにハッとして見遣ると、坊ちゃまは安らかな寝息を立てて眠ってらっしゃった。

 私はその寝顔に安堵して、平静を取り戻した。決して起こさないようにと注意を払いながら握った手を解き、お部屋を出る。

 廊下に出て、音ひとつ立てないように扉を閉じる。ふー、っとひとつ溜め息を吐くと、すぐ正面にある窓の向こう側が目に入った。今日は、雨は降っていない。でもここのところ、窓から見渡す限りの空には暗い黒雲が垂れ込めていた。いつまた雨が降ってもおかしくないように。

 …いつまでも、こんなことはしていられない。それは、わかっている。“洗濯物”を取り込みに行かなければ――

 私は長い廊下を往き、階段を下りて一階に渡った。一階には厨房と客間、食堂に――この屋敷でただ一つ、“外”に出るための扉がある。

 大きな、門のような風体のその扉の前に立ち、私はスカートの右ポケットを探った。その中にあるものを取り出す――金鎖を通した、小さな銀の鍵だ。これはこの扉を開ける、無二の鍵。

 私は鍵穴に差そうとして――視線を感じ、ハッと右方を見遣った。


「あっ…!」


 小さな悲鳴を上げて、あたふたと退散する――その後ろ姿は紛れもなく、坊ちゃまだった。



++++



 変化は急激で、その晩の食卓から顕れた。


「…いらない」


 坊ちゃまは、目の前に並べられた食事に頑として手をお付けにならなかった。前菜はサーモンマリネのサラダ、スープはサツマイモのポタージュ、主菜は甘辛く味付けしたひき肉をパイ生地で包んで。いずれも、坊ちゃまが普段ならお目を輝かせ召し上がるような皿だった。

 体調を悪くされているのかと、私が手のひらをその額にそっと寄せようとすると、坊ちゃまはふいっと頭を振って避けられた。その双眸は、真っ直ぐ窓の向こう――夜闇に沈んだ漆黒の、“外”へと向けられている。


「ルタール、僕は…たったひと目でいい、“外”がみたい」
「坊ちゃま、それは…」


 私は差し出した手のひらが、爪先まで強張るのを感じた。駆動音が聴覚回路を逆撫でるほどに、やかましい。そのざわめきは坊ちゃまが今一度こちらを向かれ、私を見上げた時に一際強くなった。今までに見たことのない、決然としたきらめきがその双眸に宿っている。


「ルタールはあの扉の鍵を持っているんでしょ? お願い、貸して」
「………」


 卑怯にも私は、口を噤み、俯くことで回答と為した。思考回路に、何も返す言葉が浮かばない。この日が来ることを、予想してはいたのに。

 ぐっと、坊ちゃまが固唾を飲まれる音が、聴覚回路を刺した。


「いいって言ってくれるまで、ぼく、もうご飯を食べない」


 内燃機関が、濁流に呑まれるような衝撃に見舞われる――



++++



 坊ちゃまのその言葉が揺らぐことはなかった。

 今日まで三日間、坊ちゃまは何もお召し上がりにならなかった。私は献立に工夫を凝らすことでなんとかその決意が崩れないものかと苦心したが、思考回路の片隅で、それは徒労だと結論付けてもいた。

 坊ちゃまの疑念は最もだ、もはや避けては通れない。

 なぜこの広いお屋敷には、坊ちゃまと私以外誰もいないのか。
 お父様とお母様は、どこへ行かれたのか。
 ここから“外”へ出る扉はたったひとつで、常に閉ざされている、その理由は――

 聡明で、思慮深い坊ちゃまのこと。一度お気づきになったなら、この屋敷に充ちる不可思議を見過ごすことなど当然できないことだろう。私はずっと、その可能性を知っていた。知っていて、放置し、今この時を迎え、何も手立てがない――なんという役立たずの瓦落多。

 或いは――この身が作り物でなければ、坊ちゃまの空虚を癒せただろうか。

 血の通う肉を持ち、ぬくもりを伴う両腕で抱きしめて差し上げることが出来たなら――

 詮無きことに患う思考回路を、私は遮断した。自身の無能を機能性のせいにして嘆息するなど、愚劣の極みだ。旧式の擬似生命体といえども、与えられた使命を真摯に全うする、その道を追及する――それこそが、作り物の最低限の矜持。

 とはいえ、その方策を何も思いつかないのもまた事実で、これでは堂々巡りだ。

 幸い、坊ちゃまは対話そのものを拒否はなさらなかった。食事を摂ることをお止めになってすぐの頃は、私と顔をあわせても気まずそうにすぐどこかにお逃げになった。でも少しずつ私への態度も軟化し、私が調理しているのを以前のようにご覧になることもあった。

 それでもやはり、食事は召し上がらない――食卓にはつかれても、頑なに固辞する。

 どうしたものかと思考回路に軋みを覚えた四日目の晩、昔話をせがまれた。坊ちゃまの願いを叶えて差し上げる久しい機会に、内燃機関も心地よく弾んだ。坊ちゃまの寝室で、その安らかな寝息を確認してから、私はそっと辞した。

 隣りにある自身の部屋へ戻り、寝に入る準備に取り掛かる。

 エプロンドレスをハンガーにかけ、ブラウスのボタンを外した後、いつものように充電していた手のひら大のバッテリーを手に取り、寝台に腰かけた。そして、ブラウスを軽くはだけさせてから、腹部をそっとなぞる。すると、人工皮膚が投影していた迷彩映像が解除され、バッテリー・カバーの線が現れた。シャッター式になっているカバーはすぐさま開き、私の機体内に充填されていたもう一つのバッテリーが姿を見せる。手早くそれを取り出して、日中充電していたものと取り換えた。カバーは即座に閉まり、その上をまたそっと指でなぞると迷彩映像が機能した。これで私の食事は完了だ。

 本当はこんなことをしなくても、外部接続のケーブルをつけて眠れば夜間充電できるし、手間もなく確実だけど、あまりにも――無機質で、私は忌避していた。自分が作り物だと一晩中知らしめられながら眠るのは、思考回路を言いようのない嫌なざわめきで苛む。…バッテリー交換をするのも、大概機械的であるけれど。

 そう考えたとき、視覚回路の奥で幻のようなものが過った。

 おいしそうに食事を頬張っていらっしゃる、坊ちゃまの笑顔だった。

 私自身は食物を摂取することは叶わないけれど――ああして、幸せそうに召し上がる坊ちゃまを見ているだけで、機体はこの上なく充たされる。それは充電の完了したバッテリーを再装填しただけでは、得られない感覚だった。

 ああ、坊ちゃま――さぞかし、お腹が空いていらっしゃることでしょう。

 坊ちゃまのあたたかな笑顔を幻視した私は、内燃機関が軋むのを感じた。バッテリーを交換したばかりなのに、さほど気分は優れない。常にない憂慮が思考回路に負荷を蓄積させて、疲労感を増しているのかもしれない――これ以上は明日の仕事に影響が出る。早々に眠らなければ。

 私は日中も肌身離さず首にかけていた銀の鍵を一度握って、確かにそこにあることを確かめた。それから寝間着に手早く着替えると、寝台に横たわり、両眼を擬瞼膜(ギケンマク)で覆う。機体は自動的に、スリープ・モードに移行する。

 この時私は、ひどく久しい感覚をぼんやりと抱いていた。
 いつもなら、十五%程度に低減されながらも稼働する思考回路が、今晩はなぜか、徐々に黒く、霞んで



++++



!! EMERGENCY !! 

DOOR TO COCKPIT IS UNDER ATTACK
BY UNKNOWN

!! EMERGENCY !!

DOOR TO COCKPIT IS UNDER ATTACK
BY UNKNOWN

!! EMERGENCY !!

DOOR TO COCKPIT IS UNDER ATTACK
BY UNKNOWN



++++



 私は寝台から飛び起きた。比喩ではなく、物理的に――機体が警告信号に、強制覚醒されたのだ。

 即座に、喉元に手を遣る。……ない! 確かに掛けていたあの、“外”へと続く扉の鍵が、なくなっている…!

 警告信号は、鍵に登録されていない生体流動を持つ者が扉を開けようとした際、発信される。今この世界で、そんなことができるのはただひとり――

 私は寝台から降りると急いで部屋を出、廊下を駆けた。緊急事態に備え埋め込まれている非常用電源を繰って、機体を走らせる。交換したバッテリ-の残量はゼロ。ああ――ああ、そんなにも思い詰めていらしたのか。

 目的地――この屋敷の中、唯一“外”へ通じる扉の前に辿りつく。果たして彼は、そこにいたした。

 まさにその扉を開いた、その瞬間だった。

 ――鈍い思考回路が、逡巡する。

 彼に、すべてを告げるべきだと――彼にはその権利があると。
 今まで謀ってきた己が罪を、跪いて告解し、赦しを乞いたい、と。

 彼のあの幼い双眸が、扉の向こうを――“外”を見る。

 そこに純粋な希望が輝いている――それを視認した瞬間、私の逡巡は停止した。



「坊ちゃま…申し訳ございません。でも今はまだ、“外”には出れないのです――」



 私は瞬時にその背後に立ち、彼の――坊ちゃまのうなじに、指を宛がった。

 ちり、と一瞬走らせた電流は的確に坊ちゃまの意識を奪い、小さな体が崩れ落ちる。それを抱き留めながらもお顔を見ることが恐ろしくて、私は胸に坊ちゃまの頭を埋めた。

 心優しい坊ちゃまが私のバッテリーを切り、鍵を奪ってまで、開きたかった“外”への扉――その向こう側に広がるのはさして広くない空間だ。丁度人間がひとり入れるくらいのスペースを、無数の光りが明滅している。

  これは坊ちゃまと私のいる宇宙船の制御室(コクピット)だった。

 屋敷のように見える空間は船体に搭載されている《D.R.E.A.M》 -Dramatical Real Euphoria Auto and Moving- システムによる超知覚幻影だ。つまり狭い居住域に対して生命体が過度のストレスを抱えないよう、五感すべてを任意の状況にあると錯覚させているのだ。

 宛てもなく宇宙を航るこの船には乗っているのは、坊ちゃまと私の、ただふたりきり。

 私たちの母星である地球は、滅亡の途にあった。無数に分断された世界を統一するも、その後三度改訂を繰り返した《辞書文明》は、理路整然を至上とするその“潔癖性”から自己瓦解――つまり生命根絶の選択を採った。それに抗う勢力との全面戦争が繰り広げられ、日に日に星は荒廃の道を辿った。

 ――私は本来、もうふたりの主人に仕えていた。坊ちゃまの、お父様とお母様。私はおふたりの命を受け、地球の外、どこか生命体の居住できる惑星を求める、果てしない旅にでることとなった。


『どうか、この子とともに生きて――』


 涙とともに託されたその願いが、最後の命令になった。

 ――現在、船体は茫漠とした銀河を漂流している。生体反応を感知した惑星に着陸するよう指針設定されているので、私のすべきことはただひとつ。

 今はたったひとりになった主人を――坊ちゃまを、守ること。

 そう、真実を知れば――このお方はきっと、堪えられないから。
 まだ幼く、純真なこの方を喰らい尽くさんばかりに“外”の世界は残酷だから。

 私はく擬瞼膜を閉じていたが、やがて意を決するとともに開いた。そして胸に抱え込んでいた坊ちゃまの頭をそっと放す。その後頭部をやさしく左手で抑えてから、額に静かにくちづける。

 薄い唇から、微細な電流が伝う――それは坊ちゃまの脳細胞にまで届き、直近の記憶を掻き消していく。

 その反動で、ピクリと坊ちゃまのまぶたが痙攣する。少しばかり苦しそうに呻かれ、静かにお目覚めになられた。


「あれ、ルタール…? 僕は…」
「よほどお昼間遊び回って、お疲れになったのでしょう。お手洗いに起きられてその帰りでしょうか、こんなところで眠り込んでいらっしゃいましたよ」


 私は坊ちゃまの後頭部にまわしていた手をそのまま動かして、頭をやさしく撫でた。その間に逆の手で、まだ判然としていない坊ちゃまの手から鍵をそっと取り戻す。


「そう…なんだか、お腹空いちゃった」
「そうですか、それではお夜食を作って差し上げましょうね」


 私は立ち上がり、坊ちゃまの手を取ってゆっくりと歩き出した。その手がぎゅっと、握り返される。

 その寄せられる揺るぎない信頼に内燃機関の軋みを感じながら、それでも――私は坊ちゃまを欺く。

 空いている手の人差し指を、そっと振った。“外”に通じる唯一の扉は、ひとりでに閉じた。そして扉のビジョンは消え失せ、他と変わりない壁の幻影が投じられていた。そこには元から、何もなかったように。


 いつかその扉が再び顕れるその時まで――私はこの揺り籠の中、穏やかな日々を紡ぎ続ける。